「家族のこれから-7」


 それにしても。菊の言葉にそのまま頷く事しか出来なかった自分が本当に情けない。
 なんとも大人げない事をしてしまった上、荷物運びの役にも立てない状態になってしまったと、今更ながら反省の極みである。
 今度からあの子供のペースには絶対巻き込まれないようにしようと心に誓った時、少し考え込んでいた菊が口をひらいた。
「…では、サディクさん。失礼しますね」
「え?」
 突然の名の呼びかけに、男は目を見張る。
 その名は自分にとても馴染んだ。聞いた瞬間、これだと思ったくらいだ。違和感等まるでなかった。だが、そのことを目の前の男が知っているのか、という事が一番重要だった。
「な、なんで、その名前…?」
「え、あ…気に入りませんか…?」
 名を呼び、立ち上がりかけた菊は、こちらを見て不安そうな表情になった。それに男は焦って、言い訳する。
「いや、その。違うんでさあ、あんまりにしっくりきたもんですから…」
「トルコで良く使われている名前だと何かで…読んだのですが…。取りあえず…呼ぶお名前がないのも不便かと思いまして、呼んでみたんですけれど…」
 偶然?出来過ぎていやしないかとさえ思うけれど。
「や、てっきり俺ぁ菊さんが、名前知ってていったのかと…」
「…もう、何をいってらっしゃるんですか。昨日お会いしたばかりですのに…」
 それはそうだ。
 見ず知らずの外国人の男を菊は助けてくれたのだ。
 いくらこちらが記憶喪失とはいえ、知り合いであればすぐに自分の身元がわかる。そこに預ければいい。厄介者のただ食いを、シングルの家庭が背負い込む理由等ない。
 菊が筋金入りのお人好しだということは、この短い間で良く解っている。だが、もしそうだとしても、知り合いがいれば隠しておく意味等ない。
 そうだ。
 ただ、菊は呼んだけだ。一般的な名を。きっとたまたま自分の名と近い音だったのだろう。そう納得し、男は名の疑問を終わらせる事にした。
「…そうですね、すいやせん。…でも本当に凄いですや。菊さん。それでばっちりな気がするんですよう。是非、それで呼んでくだせえ」
「…はい。解りました…でもすみません。説明してから呼べば良かったですよね」
 配慮が足りませんでと菊は深々と詫びの礼をした。
 だが、別にそこまで謝ってもらう事でもないと男は思う。自分のちょっとした思い込みだったのだから。
「いえ、ちょっとおでれーただけですんで…気にしねえで下せえ。名前が頂けて嬉しいですから。」
 そう言えるのも馴染みがあったからなのだから、恩人に余計な心配はかけるまいと笑ってみせる。
 すると菊も笑顔を取り戻し、今度こそしっかり立ち上がり開けっ放しであった戸に手をかけた。
「…ではいってまいります。しっかりおやすみくださいね。サディクさん。」
 うわ。
 先ほどにつけられたばかりの名だというのに、呼ばれるたびに心臓が跳ね上がりそうになるのは何故なのだろうか。
「はい、お気をつけて…」
 手を振り、菊を見送り。ぱしりと小さく音を立てて閉まった戸を確認して、布団に潜り込む。
 がばりと布団を顔までかぶり、余韻を噛み締めた。
「サディクさん…だってさ」
 優しい声でこの名を、これから何度も呼ばれるのだと思うと嬉しくてたまらない。
 口元のにまにまが収まらない。
 なんだ、俺、あの人の旦那みたいじゃないか。常識はずれの馬鹿みたいな妄想も止まらない。
 だが、はやく英気を養い、この家の手伝いを少しでも出来るようにならなければならないと言う気持ちは変わらない。
 体を横たえるとすぐに睡魔は襲ってきた。
 役に立たなければ。
 少しでも。ここに居る為にも。
 夢うつつに、そう思った。
 暖かい胸に灯った淡い思いは、眠っても到底消えそうになかった。


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