だが、男の目に広がる不安を見て取ったのか、疑う事を知らないのか、菊はすぐ理解したようだった。
少し考え込むような仕草を見せると、何かお持ちのものはないですかと聞いてきた。
「日本語お達者ですから…どうかとは思ったのですけど…外見から日本の方ではないと思います。ですから、バスポートがあれば…」
だが、残念ながら男はパスポートは持っていなかった。まさに着の身着のままだったのだ。だが何か手がかりがないかと、体中のポケットを必死にさぐると、ズボンの後ろのポケットからメモのような物が見つかった。
開いてみると小さく一、二行走り書きされており、小さく日本の住所らしい物と電話番号が書いてある。
「常達病院…ここの近くですね。」
覗き込んだ菊が小さくつぶやいた。
その瞬間ずきりと頭が痛んだ。小さく顔をしかめるが、菊は気づいた様子はない。倒れた後遺症だろうかと深く考えずやり過ごし、もう一つ下に書いてある文を読む。
「なんだ…これ」
非常になじみがあるのに、知っていて当然のものなのに、靄がかっている。また頭に痛みが走る。
だが、菊がぽそぽそと言った言葉に反応した。
「アルファベット?…でも英語じゃない…これは…トルコ…語?」
「Tu¨rkiye?」
自然と出た言葉にそうだと確信した。
途端、泉のように生まれ育った祖国の事が頭の中に、溢れ出した。
「…そうです。トルコだ!俺の生まれた…祖国です!」
やったと小さく叫んだ。
自分の出自がはっきりした途端、母国語も習慣もあっという間に思い出す。
一気に自分の不安のもやが全て解消されたような気分になる。自分が何者かさえわからないことが、こんなに不安になるとは思ってもいなかった。
嬉しさのあまり、何故菊がミミズのはうような字であったのに、すぐにトルコ語だと解ったのかという事は気にもとめなかった。アルファベットであるならば、ドイツ語、フランス語…どのような可能性もあったというのにだ。
一緒になって喜んでくれる人がいてくれたということが、男にとっては大きかったかもしれない。
「ああ、よかったです!」
「はは、こんな時でも日本語しゃべってるもんですねぃ…いっそトルコ語が出てたらすぐ解ったんでしょうが…」
「随分と日本におられたという事でしょうか…」
ということは結構すぐ解るかもしれませんね、と口に手を当てながら菊は言った。
「では…他の事は…?」
「…すいやせん…なんでここに居るのかは…さっぱり…」
それどころかやはり自分の名や、住んでいた場所でさえ解らない。
身に付いた習慣や、そういったものがはっきりしたのだからそこまで思い出して欲しいものだが、頭をゆっくり探っても、やはり霞がかった様で何も出てこない。
「…解りました。トルコ大使館へまた連絡を入れておきますね。お名前も解らないのでしたら、やはりご本人も大使館に赴かなければならないとは思いますが、それは体力が回復してからにしましょう」
「お、お手数おかけしやす…」
「いえ、お国が解っただけでも良かったですよ。」
ゆるりと笑ったその笑顔に男は暫く見とれてしまう。
なんだか中性的とでもいうのだろうか。男女問わず癒しをくれるその雰囲気と、声。
自分はもしかしたら、大層な幸せ者かもしれないと男は思った。こんな良い日本人に拾ってもらって。
「菊…さん…ほんと、ありがとうごぜえやす…」
心から思う事を素直に言った。
名を呼んだ瞬間、心に何かが灯ったような気がした。
「いえ、お元気になっていただければそれだけで。」
「…お世話になりやす…」
何度目か解らない、礼をした時。こつこつと軽い小さな音がした。
菊が振り向き、戸の方へ歩んでいく。
「ハーク君」
からりと開いた戸の向こうには、凄い形相の子供が立っていた。
だが男にとて解る。
これが先ほど死にかけている自分を足蹴にした子供だと言う事は。
すでに菊というこの日本人は、とてつもなくいい人間だという事は良く解っている。こんなに人が良くて騙されたりしないか?大丈夫かと記憶喪失の自分にまでそう思われてしまう程にいい人間だ。
…だがこいつは違う。
なんとなく宿命の何かさえ感じてしまう。きっと永遠にそりがあう事はなさそうだと思ったが、命の恩人の手前そんなことを言う事は出来る訳がない。
ましてや、菊の子供というならば。
そこでなにか胸がちくりと痛んだが、男は特に気にしなかった。
ちらりとそちらを見やると燃えるような瞳でこちらをにらんでいる。
その子供が明らかに生粋の日本人ではないことはすぐ解った。茶色の髪、透き通るようなグリーンの瞳。白い肌。欧州圏の人種と推測された。
国際結婚。
そんな言葉が思い浮かんだ瞬間、子供が叫んだ。
「…元気になったんだったらとっとと出てけ!」
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