だらりと投げ出された腕がなんとも滑稽だった。
窓から差し込む、夕暮れ時特有の濃いオレンジ色の光があまりに美しくて現実とは思えなかった。
未だこれは夢なのだとそう想いたい気持ちも手伝って。
まだ校庭で遊んでいる子供達の甲高い声もひどく遠くに聞こえる。
普段ならば…もうそろそろ帰れよと声を掛けている時間だ。
先生もなと生意気な口をきく子供達と笑いあって…同僚と一杯呑みに行くかと声をかけたりして…。
いつもと同じはずの日常は180度世界を変えていた。
ほんの数時間の後に。
もう何もかもどうでもいい。
すっかり投げやりになった思考は…ちっとも動こうとはしない。
もうすでに…そう随分と前に術の抗力は切れていた。だから動こうと思えばいくらでも動けた。
今なら逃げ出すことも可能だった。
だが全てが終わってしまった今となっては、ここから逃げだそうがなにも変わらない。
…本当に今さらだ。
若さゆえか…何度も組み付かれた身体は疲れ切っていて、ほんの少し身体を動かすことでさえ…指を動かすことでさえ億劫だった。
まだ処理もしていない下肢はべたべたで、明日は確実に体調を崩すだろう。
だがそんなことを…未来の事を考えることも出来やしない。もはや思考するのさえも億劫で。
何も経験がハジメテと言う訳じゃない。
もう初心だとか言われる年はとうに超したし、退いて随分になるが戦場での伽も何度もこなしていた。
どんなに屈辱に泣いても、忍びなのだと。仕方ないと割り切っていた。そうしなければやっていけなかったから。
だが…今回は相手が悪過ぎた。
割り切ること等で切るはずもない。
自由を奪われた上の…無理矢理にとはいえ、禁を破ってしまったのだから。
イルカの唯一の、この職についてから…絶対に破らないと心に決めていたこと。
それがあっさりと…粉々になってしまった今もうこの仕事を続けていく自信さえない。
少年に触れられた時から、イルカのすべてが奪い去られたような気がしていた。
大事なもの全てを…奪い取られたような、そんな感覚がある。
ただ踏みにじられたのでは…決して無く、少年がイルカの中にあった…何かを奪っていったような…。
そばに座り込んだままの少年は、全てが終わってからも、飽くことなく解かれたイルカの髪をくるくると玩んでいる。
それをとがめることさえも出来ず、好きなようにさせていたが。
「…」
少年はなにも喋らない。
ただじっと、ふて腐れたように背を丸めているイルカを見つめ、髪を玩んでいた。
その表情は変わることはない。
もっともイルカはこの嵐のような時間で、ひと目たりとも少年の顔を見ようとはしなかったが。
いや、直視出来るはずがなかった。
自分の身体を好きに玩ぶ…元生徒の表情等。
「なんとなく…、先生の考えてることわかんだよな…」
唐突に少年は口を開いた。
しかもイルカの考えていることが解るのだと。
イルカといえばただ絶望感に支配されているばかりで、何も考えることは出来ていなかった。
だから思った。
何をいうのかと。
「…」
沈黙で返せば少年の影はわずかに揺れた。
笑っているのか?
「もう、この仕事やめたいとかだろ?ふ…馬鹿みたい」
くくっとくぐもった笑い声が聞こえた。
それが耳に届いた瞬間…かっと頭に血が登った。
…卑怯な術をかけて…散々好き勝手しておいて。
なにが…可笑しい!
「っつ!」
少年の笑い声に…真っ白だった思考が一気に戻ってきていた。
それは、赤い大きな怒りを伴って。
起き上がり怒鳴り付けようとしたが、全身に、特定の部位に走った痛みに、身を竦めるだけで終わってしまう。
実の所…仕事に手一杯で、異性の恋人さえここ数年できず…性行さえ、随分と久しぶりのことだったのだ。ましてや同性に無理を強いられた身体はあちこちが熱をもっている。
悲鳴をあげることも出来ず、イルカはその場に蹲ってしまった。
プライドも矜持も…もうとっくに粉々だ。
それでもどうしたって守りたいものや、張りたい虚勢は、ある。
先生としての仮面を欠片さえ残さず、引き剥がされたのだとしても。
「…痛い?」
小さな手のひらがイルカの肩に触れた。
それに大仰に反応してしまい、イルカはますますその身を縮こまらせた。
自分を嬲っていた時とはまるで違う手の大きさ。
その時に与えられた、痛みや屈辱がフラッシュバックして、イルカの思考を鈍らせる。
わざわざ御丁寧に、変化迄行なって与えられたその快感が甦って。
ぼろりと…触れられる恐怖に、心の痛みに耐えきれずに涙が溢れた。
いやだ、いやだ。
もう、こんなの。
どうしておれがこんなめにあわなきゃいけない。
…おもいをうけとることなどぜったいにできないといったのに。
どうしておまえはおれなどにしゅうちゃくする!?
「謝らないぜ。絶対」
無駄だとは解っていたが…気付かれたくなくて声も出さず…ただ嗚咽するだけのイルカに、少年はいう。
独白にも聞こえるそれは、自分に必死に言い聞かせているようにも思えた。
「先生が悪いんだ、こうしないと先生は俺にチャンスもくれないんだからな」
絶対に謝らない。
いつのまにか、耳もとに移動していた少年の唇がイルカ自身に言葉を吹き込む。
びくりと震えた身体は自然と逃げを打つが、まだまだ少年の力には負けていないと自負していたはずの自分の力はまるで出ず。今のイルカはアカデミーの子供達のように弱々しい抵抗しか出来なかった。
逃げることなど許さないとばかりに、今迄見ることの出来なかった少年の顔に向き合わされ。
涙がまだ溢れ続けている情けない顔をみるなと…おまえの顔など見たくないのだばかりに首を振るが、両頬を挟み込まれ見ろとばかりに強い視線に晒された。
いま、こうなって…はじめてみた、しょうねんのひょうじょうは---------------。
少年はそのまま、言葉を続けた。
「…痛みも屈辱も…全部、そう…俺を刻み込めた」
だから。
「もうこれで、あんたは俺を無視できないだろ?イルカ先生」
「っ!」
とても、真摯な瞳だった。
イルカが息を止めた…ひどく傷付いた、幼子のような、親からはぐれた子供のような表情はたった一瞬だった。
もう、立派な1人の大人の顔をしていた。
もとより、クラスのだれよりも…大人びた顔をした落ち着いた子だったけれど…やはり、ナルトと張り合うその感情はまだまだ子供だったのに。
成長を認めつつも、直視できなかったその事実。
いや認めたら自分の禁を破ることになってしまうのだ…そう、目を背けていた。
どのみち自分を諦めていく者のことなど、自分を通り過ぎていくだけの者達などの恋情などしっかりと見ることもないのだと。
子供達のことが大切なことは確かなのに…自分を求める生徒の本質を本当の意味で知りたいとは…思えなかった。
だからこそ笑顔で、綺麗にオブラートでくるんだ感情しか見せずにいた。
今迄そんなイルカの逃げともいえたそれは…ちゃんと隠し通せていたと思っていた。
いつまでも子供は子供なのだとその枠から外すこと等出来ないのだと言う表向きの理由で。
自分への戒めだと、常識に縛られているのだと。
思いを伝えてくる子供達にも、からかい半分でいた周囲にも。
いや事実、そうだったと思う。
いままでこのようなことを思うことさえなかったのに。
自分自信でさえも騙せていたのに。
この黒髪の優秀な少年を覗いては。
向き合う以前に逃げていたのは…そちらだろうと、攻めるその澄んだ瞳に耐えきれず、イルカは視線を泳がせた。
「もう逃げんなよ、もうあんただってわかってるだろ」
「…」
「ちゃんと、俺を見てくれ。…あいつを…ナルトを…認めたように」
その成長を、この思いを。
見る前から排斥する前に、ちゃんと認めてくれと。
ナルトとは感情の種類がまるで違うけれど、どんな思いであっても…取り合う前から切り捨てるのは反則だと、イルカを攻める。
けれども、少年に言葉を返すことはイルカには出来なかった。
胸が痛くて、感情が複雑に絡み付いて、むちゃくちゃだ。
少年は目を反らさず、ひたすらに見つめてくる。
…受け止めることが出来ないから、こんな馬鹿げたことをしているのに。
…初めから嫌な予感はしていた。
少年がはじめてその感情を…イルカに見せた時から。
歯を食いしばり、助けてくれと謂わんばかりに、普段はまるで見せなかった感情をむき出しにして。
子供のような我が儘ともとれる、言葉をイルカにぶつけ…その想いを伝えてきたその時から。
俺を見てくれと、ナルトに向ける情が俺にも欲しいのだと声を絞り出した小さな生徒。
イルカは初めて見た少年の激情に言葉がでなかった。
孤独に、絶望に包まれている少年に、何も出来なかった罪悪感が絶えずイルカにはあった。
自分より遥かに暗いその感情に触れることが出来なかった。
狐である、親のかたきでもあるナルトには何故だか…自分に良く似ている所があるせいか…ありのままに接し…随分と触れることが出来たというのに。
この少年にはそれが出来なかった。
良く解らない…少年に近付いてはいけない、といった不思議な予感もあったのかもしれない。
だが、そんな警告ともとれるそれに反して…子供の激しい感情に…イルカは何故か嬉しくて堪らなくなっていた。
自分に心を許したいという子供に。自分などの懐にいれてくれと叫ぶ子供に。
側にいても俺もいるからと触れることが出来なかった、その頭を大丈夫だと抱いてやることが出来なかった…そんな無力感も、罪悪感をも払拭していく…なにかが。
何かがイルカの中に染み渡っていくのを感じていた。
少年に近付くことが、誰よりも側にいることが許されたように思ったのだ。
だが、結局はいつも通りの曖昧な言葉を吐いていた。
少年を慰めるようなやわらかな言葉ではあったが…確かに否定の言葉は口にのせていた。
おまえの気持ちはうけとめることができないのだと、人の良い教師の顔で、その思いを退けた。
…それが禁忌であることも、知っていたから。