「俺は、生徒に手を出すことは絶対ねえよ」
扉一枚隔てた所から感じる気配をしっかりと感じながら…イルカは言葉を紡いだ。
ひとつのこらずちゃんと…聞いてくれ。
「卒業しようが、上忍になろうが…生徒は生徒だ。元生徒だろうがそんなことは関係ない。自分の手を掛けた可愛い子供に手を出すなんて出来るはずねえだろ」
そうだ、許さない。
生徒に手を出すなんて、あり得ない。
常識にただ捕われている訳でも無くこれはもう、自分の信条みたいなものだ。これを破ればもう教師ではいられないだろう。
自分の中の禁忌。
もちろん世間の目というのもある。
手を出されたなどと吹聴されては、子供の未来はない。
だが…それ以上に自分にとって許しがたいことだ。
まだ未婚で子供もいないイルカには、受け持った子供達…全てが自分の子供のような…そんな思いがある。
全ての子供が愛しい。
親のような大きな慈愛でイルカは彼等を見ている。
まるでこの火影の里、そのものの様に。
だからこそ。
自分の元から巣立っていこうが、そんな対象にはみれるはずがなかった。
「絶対あり得ないから。変なこというなよな」
そういえば、外の気配が揺れるのをイルカは感じた。
そうだ、だからお前も諦めてくれ。
俺なんかに目を向けるな。
俺なんてお前の成長する過程の…通過点の踏み台で良いのだと。
「そうかねえ…俺なら本当に本気なら…ちったあ考えてやるけどね。はじめっから否定しちまっちゃあかわいそうじゃねーか」
初めは茶化し気味でしかなかった同僚は、イルカの言葉に何か不満を覚えたのか…表情を引き締めて少し眉を潜めいった。
そんな真面目な同僚の言葉にイルカは一瞬言葉を失ったが…だがそれでもこの件に関しては意見を変えるつもりは毛頭ない。
人の言葉で変えられる程、軽いものではなかった。
「同情だけで付き合えりゃーそれで構わないけどな。そういうんじゃないんだよ」
「…そか…ま、おまえらしいといやあらしいけどな」
同僚はそれでもまだ何かいいたげにしていたが、自分もテストの採点が残っているのだろう、やがて席に戻っていった。
そんな同僚を見届けて…持っていたペンの蓋を開けた。
ため息をついてイルカは外の気配を探ったが…外の気配も何時の間にか消えていた。
目元を多い、再度深く息を吐出す。
はやく答案に眼をいれなければならないのにその気も失せてしまった。
頭を占めるのはもうそこにはいない気配の持ち主のことばかりだった。
そうだ、これで諦めてくれればいい…それでいい。
おまえにはもっと…相応しい人が沢山いるよ。お前だけを包み込んでくれるやさしい女性が…。
きっとその選択はお前の為になる…。
きっとすぐに彼は自分等忘れ、仲間達と成長していくだろう。立派なこの里の忍びとして巣立っていくのだ。
…それを少し寂しく思う等どうかしている。
まっすぐで…真剣な少年の目を思い出す。
少女と同じように、その思いを告げてきた瞬間を。
「…」
あの思いも消えて無くなる。それはイルカが望んだことだ。
構ってくれて居た子供がその手を離れていくからただ寂しいだけだと、親のような感傷だとそれを振り切って、イルカは答案に眼を走らせた。
※
呆然としている所にするりと合わされた唇に、イルカは目を見開いた。
柔らかく弾力のあるそれに心臓が跳ねる。
若く瑞々しい、その温もり。
「ん」
ただ、触れるだけの。
だが、それだけの行為が…イルカの思考をあっというまに奪い、神経を焼き切っていく。
合わされた時と同じように唐突に離されたが…離れる瞬間にぺろりと小さな舌で表面を舐められた。
「っつ!」
イルカはまるで初めて唇を奪われた生娘のように、頬を赤く染めてしまう。
奪い去られた思考が戻ってくるまでに多少の時を要する程に…イルカは狼狽えていた。
ちくしょう…!なんで、なんでこんなことに!
イルカとしてはやはり子供の癖にと思う所が強いのかも知れない。
自分の手を離れても、その時ばかりのことが頭にあり、まだまだ子供なのだとしか思えないのだ。
いや、彼等がどんなに成長しようとその思いが消えることはないのだろう。
非常にイルカらしいが…そんな少年に対する無意識の態度が、余計にその心を駆り立てているのだとはまるで知らずに。
黒髪の少年は唇を釣り上げていつもよりも、さらに子供らしく無い表情で笑う。
「知ってる?ねえ?センセ?」
睨み付ければつける程、その笑みは深くなっているような気がして堪らない。
少年がイルカに対して、今迄そんな表情を見せることは無かった。
いや、自分の生徒でいなくなったときも、照れたようにその顔を伏せていたのだ。
イルカにその秘めた想いを伝えた時も。
今すぐそのすました顔を、頭を撲りつけて説教してやりたい…いやこの四肢が自由になるのなら取り返しの付かないことになる前に、逃げてしまいたい。
情けないけれど、目の前の少年が恐ろしくて堪らない。いや、何より今のこのまるでちからの入らない身体が。抵抗一つさえ出来ない…術に縛られたからだが。
笑ったままの少年は笑みを崩さないまま、イルカの頬に手を寄せた。
そうして、ゆるゆるとなんども辿る。
その穏やかな感触より、イルカは少年の舐めるような視線から逃れたくてたまらない。
「ね?」
まるで…挑みかかる様なその口調。
「知ってるよな?」
二人の間を沈黙が支配する。
どんな答えに辿り着こうとも…答えること等できるはずが無かった。
「この術の…本来の使用方法ぐらい…さ」
びくりと震えるはずのない身体が、震えたような気がした。
「…先生だもんな…解って無いはず…ないよな…?」
「…な…なんのこと…」
奥歯を噛み締めてしぼりだすけれど、又顔を近付ける子供にイルカは後じさりたい気持ちで一杯だ。だがそんなことができれば初めからこんな所に居はしない。
頬を伝う大粒の汗がやたらと冷たく感じる。
その汗が冷えたせいか…頬に感じる…ちいさな少年の手も。
やめてくれ。
たのむから。
こんなことしてもなんにもならないじゃないか。
そう口は哀願を零しそうになるけれど、教師としてのプライドも、大人としてのプライドもそんなことは許してはくれそうになかった。
子供相手に哀願等と。
いや、何よりそんな願いが聞き届けられるとは思えなかった。
…先生は誤魔化すだけじゃなくて、しらばっくれるのも上手いんだな?
ぼそりと耳もとに囁かれて、イルカは青ざめる。
…本当はわかっている。
こんな不自然に極端な部位だけを縛る術など、又、こうして声が出せることなど…それ目的に造られたのだとしか考えられない。拷問の為の、術。口だけが、自由に動くその訳は?
軽い暗示もかかっているだろう為、舌を噛み切ることも出来ないその訳は。
自白させる為の、ただ、目的の為に嬲り、聞きたいことを聞き出す為のもの。
ゆっくりとクナイを体内に埋め込まれても、毒針を埋め込まれようとも。
生爪を剥がれようとも、皮を剥がれようとも。
髪をすべて引き抜かれようとも、歯をすべて…引き抜かれようとも。
その身体をおんなのように…蹂躙されようとも。
死を選ぶことも出来ず、その苦痛は、屈辱は相手の欲しい機密を…自ら吐き出す迄ひたすら続けられる。
与えられた感覚はそのままに感じられ。
精神的にも肉体的にも…その苦痛ははかりしれない。
そんな術だろうことは…簡単に予想がついた。
事実戦場でも、味方がそんな術を使っているところを何度も見たことさえ…あるのだから。
だが解っているからといってどうとなる訳では無い。
いや、余計にその想像を駆り立て…いやなことしか思い浮かばない。
馬鹿な馬鹿な、そんなことあるはずが無いと思う気持ちとは裏腹に。
明るい光に照らされたまだ丸みを帯びた頬が、言葉を放つ度に緩やかに動く。
綺麗に筋肉がついた…しなやかなその身体。
まだ大人への成長過程の途中の…その小さなアンバランスな身体。
これが…これから一体自分に何をするのかと思えば、 恐い。
「サスケ…やめろ……」
奥歯が重なりあってかちかちと音を立てた。
ほんの些細な音だけれど。…完全に目の前の少年を恐れていることはすでにばれてしまっているだろう。
もと生徒相手だと油断しきっていた自分を恨みながら、イルカはサスケをそれでもと睨み付けた。
だがそんなイルカを見て、サスケは笑みを消した。
先ほどの人を小馬鹿にしたようだった口元は硬く引き結ばれ、無表情に近い、いつもの顔になっていた。
やはりその顔も受け持っていた時に子供らしくない…と心配していその表情に。
「…ここ迄来ても俺を子供扱いしかしてくれないんだ…あんたは」
呟かれた言葉に心臓が跳ねた。
違う。
子供扱いなんてしていない。もう立派な忍びだ。
もう俺の元からはとっくに巣立っていて。
いや、だからこそ。
思いを受け止める等、真剣になど向き合えなかった。そう、
向き合えば…恐れていた何かに…気付いてしまうから。
「センセイ…」
真剣なその瞳がイルカを追い詰める。
間違い等何一つないのだという意志をこめたその瞳が。
「あんたを…これから俺の好きなように…」
耳に息と共に吹き込まれた言葉。
「っつ…」
「…」
再度重ねられたそれに…イルカは背中に今迄感じたことのないような嫌な汗が…流れ落ちるのをやけにはっきりと感じた。