穏やかな声が聞こえた。やさしい、あたたかい、美しい声だった。
一定のリズムで刻まれるそれが、心地よい。
ああ、声だけじゃない、音にのせて、聞こえて来る。
ふわふわと自分を包み込む。
…子守唄。
誰かが歌っていた。
眠っている時にいつも隣で歌っていた。あの、子守唄だ。
はじけるように、何かが頭をよぎった。
『本当にいくの?』
綺麗な女だった。緩やかな髪が美しく、 鮮やかなグリーンの瞳の、華奢な女。
だが、それが誰だと思う前に、大きななノイズか走る。
ぐにゃりと映像は歪み、あっという間に霧散した。
恐らく、知りたかったはずのものだ。それが跡形もなく消えて、唐突に酷い不安に教われる。
美しい声はもう聞こえない。包み込むような暖かさはもう、無くなってしまった。
誰もいない。
自分はひとりぼっちだ。
そうだ、菊。菊は何処にいる?彼がいれば大丈夫だ。
彼がいれば、自分は自分で居られる。あたりを見回す。けれど、闇ばかりで、足下さえ見えない。
いやだ、いやだ。あなたがいないと。ヘラクレス、あいつもいない。もがくように手を動かすが、闇は何も答えてくれなかった。
まるで溺れているようだと思った。
途端、思った通りに一気に水が周りに押し寄せる。口元まで水位が上がり、あっという間に全ては水に覆われた。いやだと、最後の気力を振り絞り、手を延ばした。
「っっあっ…」
手は空を掻いた。
だが、意識は完全に目覚めていた。延ばした手が見える。
なんて夢だ。寝汗をびっしょりとかいている。
最悪な寝起きとは裏腹に、気分は随分良くなっていた。体調を崩したのも、精神的な要因が大きい為、高ぶった精神が落ち着きを取り戻せば良くなるもの当然だろう。
菊と、ヘラクレスに謝らなければ。落ち着いた心には恩人達への詫びが一番に思い浮かぶ。
嫉妬の心もすっかり落ち着いた。
そうだ、自分にだって思い出せなくとも、過去が有るだろうに。
ヘラクレスの母親の事を考えるとまだ小さく胸は痛んだ。だが、先程の比ではない。大きく息を吸い込めば、周りの事も耳に入るようになった。
すぐ隣から小さな寝息が聞こえて来る。
「!…菊さん…」
手はサディクの胸の上に、置かれていた。首をまわすと、菊はサディクに無防備な顔を見せて眠っていた。
あれから、菊はずっとそばに居てくれたのだ。
あの暖かく包み込むような声は、菊だったのだろうか。やさしい子守唄を歌ってくれたのは。
「…俺は…」
起こさないように、そっと置かれている手を握った。
穏やかな温もりが肌から、優しさとともに、伝わって来る。それだけで泣きそうになる。
どうしてそんなにやさしくなれるのだろう。
菊に目覚める気配はまるでない。
規則的な、寝息が聞こえて来る。
綺麗で、幼ささえ残る顔をじっと見つめる。
それだけで愛しさがこみ上げた。ただ、握りしめた手からその鼓動を感じるだけで。
菊さん、菊さん。
おれぁ情けない男です。何にも出来ず、嫉妬だけは一丁前にして、あんたたちに迷惑をかけて。
でも、それでも。
やさしい、綺麗なあんたのそばに居たい気持ちは、どうしたって変わらねぇんだ。記憶を取り戻したってきっとそれは変わりそうにねぇんです。
もう、口を噤む事も出来ない。
激しい嫉妬で、それを自覚するしかなかった。
こみ上げた愛しさは、自然と身体を動かした。静止する理性は麻痺してしまったようだ。
上半身を起こし、柔らかな頬に、口づける。
「…あんたのことが…俺は…」
もう、自分の感情を否定する事はない。
何を思い出したとしても、そばに居る。嫉妬も、疑いも全て自分のものとして。
「ん…」
自分の口づけた場所を指で擦ると、もぞりと菊が動いた。
桜色の頬が、揺れる。
可愛らしい寝顔を見つめたまま、菊が気が付くのを待つ。
その愛らしい口で、声で。
ただ、自分の名を呼んでもらう為に。
この温もりはもう、手放せそうになかった。
後編に続く…
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