「家族のこれから-20」

 穏やかな声が聞こえた。やさしい、あたたかい、美しい声だった。
 一定のリズムで刻まれるそれが、心地よい。
 ああ、声だけじゃない、音にのせて、聞こえて来る。
 ふわふわと自分を包み込む。
 …子守唄。
 誰かが歌っていた。
 眠っている時にいつも隣で歌っていた。あの、子守唄だ。
 はじけるように、何かが頭をよぎった。
 
『本当にいくの?』

 綺麗な女だった。緩やかな髪が美しく、 鮮やかなグリーンの瞳の、華奢な女。 
 だが、それが誰だと思う前に、大きななノイズか走る。
 ぐにゃりと映像は歪み、あっという間に霧散した。
 恐らく、知りたかったはずのものだ。それが跡形もなく消えて、唐突に酷い不安に教われる。
 美しい声はもう聞こえない。包み込むような暖かさはもう、無くなってしまった。
 誰もいない。
 自分はひとりぼっちだ。
 そうだ、菊。菊は何処にいる?彼がいれば大丈夫だ。
 彼がいれば、自分は自分で居られる。あたりを見回す。けれど、闇ばかりで、足下さえ見えない。
 いやだ、いやだ。あなたがいないと。ヘラクレス、あいつもいない。もがくように手を動かすが、闇は何も答えてくれなかった。
 まるで溺れているようだと思った。
 途端、思った通りに一気に水が周りに押し寄せる。口元まで水位が上がり、あっという間に全ては水に覆われた。いやだと、最後の気力を振り絞り、手を延ばした。
「っっあっ…」
 手は空を掻いた。
 だが、意識は完全に目覚めていた。延ばした手が見える。
 なんて夢だ。寝汗をびっしょりとかいている。
 最悪な寝起きとは裏腹に、気分は随分良くなっていた。体調を崩したのも、精神的な要因が大きい為、高ぶった精神が落ち着きを取り戻せば良くなるもの当然だろう。
 菊と、ヘラクレスに謝らなければ。落ち着いた心には恩人達への詫びが一番に思い浮かぶ。
 嫉妬の心もすっかり落ち着いた。
 そうだ、自分にだって思い出せなくとも、過去が有るだろうに。
 ヘラクレスの母親の事を考えるとまだ小さく胸は痛んだ。だが、先程の比ではない。大きく息を吸い込めば、周りの事も耳に入るようになった。
 すぐ隣から小さな寝息が聞こえて来る。
「!…菊さん…」
 手はサディクの胸の上に、置かれていた。首をまわすと、菊はサディクに無防備な顔を見せて眠っていた。
 あれから、菊はずっとそばに居てくれたのだ。
 あの暖かく包み込むような声は、菊だったのだろうか。やさしい子守唄を歌ってくれたのは。
「…俺は…」
 起こさないように、そっと置かれている手を握った。
 穏やかな温もりが肌から、優しさとともに、伝わって来る。それだけで泣きそうになる。
 どうしてそんなにやさしくなれるのだろう。
 菊に目覚める気配はまるでない。
 規則的な、寝息が聞こえて来る。
 綺麗で、幼ささえ残る顔をじっと見つめる。
 それだけで愛しさがこみ上げた。ただ、握りしめた手からその鼓動を感じるだけで。
 菊さん、菊さん。
 おれぁ情けない男です。何にも出来ず、嫉妬だけは一丁前にして、あんたたちに迷惑をかけて。
 でも、それでも。
 やさしい、綺麗なあんたのそばに居たい気持ちは、どうしたって変わらねぇんだ。記憶を取り戻したってきっとそれは変わりそうにねぇんです。
 もう、口を噤む事も出来ない。
 激しい嫉妬で、それを自覚するしかなかった。
 こみ上げた愛しさは、自然と身体を動かした。静止する理性は麻痺してしまったようだ。
 上半身を起こし、柔らかな頬に、口づける。
「…あんたのことが…俺は…」
 もう、自分の感情を否定する事はない。
 何を思い出したとしても、そばに居る。嫉妬も、疑いも全て自分のものとして。
「ん…」
 自分の口づけた場所を指で擦ると、もぞりと菊が動いた。
 桜色の頬が、揺れる。
 可愛らしい寝顔を見つめたまま、菊が気が付くのを待つ。
 その愛らしい口で、声で。
 ただ、自分の名を呼んでもらう為に。

 この温もりはもう、手放せそうになかった。

 

                                    後編に続く…

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