| 豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ、と思う位には現在進行形で、阿部は榛名という男が嫌いだ。 いや、嫌いという感情さえも持てない程に、今はどうでもいい、そんな存在だと阿部は思っている。きっと向こうもそう思っているはずだ。できれば二度と会いたくない男のランキングでも上位に入るくらいに嫌いだと。それ自体が意識している証拠だと…あの無神経男ならいいそうではあるが、阿部本人はいたって真面目だ。 だが、夏大の抽選のあった日の夜。 一番聞きたくなかった名を現在のバッテリーの投手、三橋から聞いて、嫌な事を思い出したと腹立ちを紛らわしながら家路を急いでいた矢先だった。 帰り付いた阿部を…あり得ない出来事が襲った。 「よう、タカヤ!」 いつものように「ただいま」と声を掛けて帰宅し。リビングを通り過ぎる時、何故だか大柄の男の姿が目に入った。珍しい、父が早く帰って来ているのかと阿部は台所を覗き込んだ。桐青にあたったからと父に報告し、聞いておきたいことがあったせいだ。 瞬間。ひょい、と笑顔で手を上げた男。この世で今、一番会いたくない男。 その顔に阿部は卒倒しそうになった。和やかに母と接しているその姿。 …なに和んでんだよ! なんでここにいるのかとか、そんな一番大事な所を阿部はすっとばしそうになる。事実、思考はそっちに転んだ。もちろん頭に血が登り過ぎた所為だ。 そう、何故か榛名が家に押し掛けて来ていたのだった。 ※※※ 榛名と出合ったのは、中学生時代シニア、戸田北にいた時だ。 口の悪い、俺様で自己中な、目の荒んだ一つ上の男。それが、阿部の榛名に対する印象だった。後はノーコンピッチャー。一試合でも数える程にしか、構えたミットの位置に入らない為だ。 当たれば痣ができる程の剛球であり、速球である球はやはりどうしてもコントロールが悪い。バッテリーの初期の頃であれば、まだまだ捕手としては未熟だった阿部の所為である所が大きかったのだが。 的か、サンドバック代わりかと言う程に痣をつくり、自らの捕球技術を攻める日々が続いた。 けれどどんなに…傷つけられようとも、阿部は榛名が嫌いではなかった。初対面の印象は最悪であったけれど、榛名の確固たる自信は決して嫌いではなかった。 何より榛名の投げる球は、阿部にとって何物にも代え難い魅力だったからだ。 当時の自分にとっては、手放せないものだった。榛名の玉が捕れれば、レギュラーも確実だったこともあるだろう。 また、自分の捕手として、信頼してくれているのだと言う言葉を貰う事もあった。 『おまえ怖がんねーからよ』 この言葉を貰った時は本当に嬉しかったのだ。自分の努力を榛名本人が、何よりも認めてくれているのだと思った。 そしてそんな自覚はまるでなかったけれど、他の先輩からはよくタカヤはモトキのお気に入りだとからかわれていたこともあった。上辺ではそんなことあり得ない等と憎まれ口を叩いて、反発していたものの。実の所、そんな他人からの評価でも、言葉でも嬉しかった。 いろいろな要因が重なっていたからこそ、あの横暴ぶりにもあの瞬間まで耐えられていたのだろう。 どんなに罵詈雑言を浴びせられようとも、自分の指示通りに投げてくれなかったとしても、共に信頼しあうバッテリーだとあの試合までは信じていた。 けれど好意が、自分の思いが全て自分からの一方通行でしかなかったのだと悟った瞬間。 阿部は、諦めてしまった。なにより、むなしく、哀しかった。 自分の信じていたものが、がらがらと音を立てて崩れ去った。榛名への信頼も、尊敬も、憧れも。 そんな思いがあったと言う事さえも…一時は認めることが出来ず、榛名をただひたすら、サイテーの投手だと詰った。 あの分かれ道とも言える試合以降も、大きな喧嘩は幾度となくした。 けれど徹底的に今までとは違った。 榛名と言う投手に求める事を一切諦めてしまった阿部は、今までのように自分の素直な感情を出して噛み付く事はなくなった。ぶつかりあう時も、初めは感情のままにいつものように激高しても、二、三言躱した後は、あんたはサイテーだと言って終わるだけになってしまった。 それに対して不満を覚える榛名に、幾度となく突っかかられたこともある。けれど、何かが変わってしまった阿部に話し掛ける事さえ徐々に減っていった。 あの大きく吊り上がった目だけは、いつも雄弁に何かを物語っていたけれど。 それでも『タカヤ』は『モトキ』に答えない。答える事等出来なくなっていた。 何を今さら、だ。 榛名に心を開いて、答えても結局傷付くのは自分だけ、だ。榛名の自分の主義を貫き通す姿勢が、好きだった。けれど、それほどに自分を守り、周りに目を向けない榛名がすっかり憎くなってしまった。 決して嫌いたくなどなかった。嫌ってしまえば負けだとも思った。投手としても…先輩としても。 けれど、ぶつかりあえばあう程、感情が別の方向に走っていくのはもう目に見えている。 有り余る程の魅力や才能は、初めからこちらになど向いておらず。一度として自分には振り向くことはなかった。それだけだ。 そして榛名のシニアの卒業を迎え。 野球しかなかった、つながりは完全に切れた。 続… |
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