「空を見上げる」




 イルカの部屋にはクーラーがない。

 否、正確には家にひとつもない。
 今の御時世ににうっそーとかよく言われるのだが、ないものはないのだから仕方がない。
 この安めのアパートに引っ越してきた時からなかったのだから仕方がない。
 別につければいいではないかといわれるかもしれないが、かつかつの生活をしていればそんな余裕もないし。
 熱いからといって…自分から付けようと思った事もないのだ。
 今までであれば充分に耐えれたのだから。
 夏の猛暑であっても、眠れない事はなかったのだ。冬の寒さだって毛布に包まっていればなんとかなった。

 心頭滅却すれば火も又涼し…。
 忍びなんだから、体温調節だって少し頑張れば…できるのだからどってことはない。
 ちょっと寝てるのに…その維持に疲れたって…電気代がかかることに比べたらどってことはないのだ。
 マイナス6%に充分すぎる程貢献している。
 28度どころかクーラー自体もってないのだ。
 クー○ビズ万歳!!
 今までやってこれたのだから、人に何を言われようが…なくったってなんの問題もなかった。

 の…はずなのだが。

 今は。
 この現実を直視した今では。

 あの文明の利器がない、という事実がとてつもなく哀しい。
 毎晩毎晩一方的に迫られ、汗だくになって、ぐったりと張り付かれて眠る事の空しさと不愉快さといったらもう尋常ではないのだ。
 疲れ切っている為に、快適な体温の維持でさえ辛いのだからどうしようもない。
 素肌同士で触れ合う場所(べったりとはりつかれているものだからほぼ半分)は汗と、それ以外のものでべとべとだ。
 ねとりと張り付くシーツも、たらたらと溢れてくる汗も。
 全てが気持ち悪くて堪らない。
 今すぐここを出ていってシャワーを浴びたいと思うのだが…。がっしりと離さないそれがベットから離れる事を許してくれそうになかったのだ。
 しかも質の悪い事に…それをしている相手はしっかりとイルカの不快を感じ取っているらしかった。
 それでも離そうとしないのが相当質が悪い。嬉しそうに張り付いて、眠っているのだ。
 こうなったら殴ってでもと…この暑苦しい場から抜け出そうとするのだが、細っこい身体のどこにこんな力が有るのだろうかと思う程に、腕にしっかりと縛られた手はびくともしない。
 じたばたと暴れれば余計に汗が吹き出てくる。悪循環だ。
 そこで男が起きた時はもっと最悪だ。これは最近学習したのだが。
 翌日…起きあがれない。仕事に行くことなどもってのほか。
 風呂に入りたくとも入れないような…酷い目にあうのだ。

「…もう、げんかいだああ…」

 イルカの体力も、不快指数もそろそろ限界を振り切りそうだった。
 今だ梅雨のぬけ切らないこの季節にこれなのだから、夏が本格的に始まればどうなるかは予想が付く。
 なのにどうして俺は踏み出せないのだろう。
 今どき、安いクーラーぐらい幾らでもあるだろう?
 別にポリシーを曲げたってこの状況なら周りだって解ってくれる。
 自分だって…納得出来るはずだ。多分。

 仕事を同僚に押し付けてまで…早く切り上げてやってきた家電製品店の目の前で、イルカはぼんやりと考えた。
 でも今…クーラーを買ってしまったら…なんか負けたような気になるのはなんでなんだろう…。

 負けもなにも、あの上忍となにか対決でもしていた訳でもない。もともと押し負けたのはイルカの方だ。
 つきあってくれという言葉と強引な押しに負けたのだ。
 だから…これとそれとは別問題…だろう。
 セックスの後にひっつかれまくったとしても。

 結局イルカは蛍の光が流れ出した店内を、何一つ買う事なく出てきてしまった。

 まだ明るいとは言え、陽は殆ど暮れ掛っている。
 今日は梅雨には珍しく…一日中、陽が照っていた。夕立ちが降る事もなく、気温が下がる事はないだろう。 いわゆる熱帯夜というものになるかもしれない。
 そしてあの男は今日も家で待っていて…またそうなってあの不快な夜が繰り返される訳で…。
 
 綺麗に澄み渡った空を見上げて、イルカぼそりとつぶやいた。

「…クーラー降ってこねえかなあ…」

 そうすればふんぎりもつくし。お金も節約出来るし。言い訳もつくし。

 人が聞いていたらええ!?この期に及んでまだそんなことを!?と叫んでしまいそうな…見事な現実逃避の言葉を吐く事しか出来なかった。

 

…ブラウザ閉…